2022年9月16-17日 台風が近づいているので、段々、風が強くなってくる。 ロウソクに火をつけるのに一苦労することが多くなる。 でも、雨が降ってこないのが幸いと思っていたら、横峰寺でとうとう雨になった。 山の中だから、仕方ないかと思いつつも、山から下りたら晴れていた。ここが晴れていれば、雨に会わなかったのに・・。 |
![]() <<三角寺:白い彼岸花>> |
![]() |
<<国分寺(こくぶんじ):参道入口>> 四国霊場第59番札所 金光山国分寺。 天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つ。 国分寺は、過去4度も火災に見舞われている。 (1)天慶2年(939年) :藤原純友の乱 (2)元歴元年(1184年):源平合戦 (3)貞治3年(1364年):細川頼之の兵火 (4)天正12年(1584年):長宗我部元親の侵攻 都度、復興を果たしている。 | ||||||
![]() |
<<国分寺:本堂>> 本堂は、寛政元年(1789年)の再建。 本尊は、薬師如来。 ここは、伊予の国府があった場所で、境内は東100mほどのところにあったらしい。 現在も、大きな塔の礎石が残っている。 | ||||||
![]() |
<<国分寺:大師堂>>
| ||||||
![]() |
<<横峰寺(よこみねじ):参道の山道>> 四国霊場第60番札所 石鉄山横峰寺。 西日本最高峰である石鎚山(標高1982m)の北側中腹(750m)に建つ。 八十八カ所の中では、第66番札所雲辺寺に次ぐ高さにある。 雲辺寺はロープウェイがあるので、車では、最高所の札所になる。 今回の遍路の最難所である。山道に入ったところで有料の林道(平野林道)になる。 途中から、雨になった。雲の中のように、霧に覆われ、先が見えにくくなっている。 | ||||||
![]() |
<<横峰寺:本堂>> 駐車場に着いてから、山道を15分ほど歩かなくてはならない。 ただ、下り坂。上の方にしか駐車場にできる土地がなかったのかもしれない。 帰り道が上り坂になるとは少しきつい。 駐車場からの道は、大師堂の脇から境内に入り、奥に本堂がある。 本堂の前の石段から、下りたところに納経所があり、その先に山門がある(らしい)。 実は、山門に気付かなかった。失敗。 | ||||||
![]() |
<<横峰寺:大師堂>> 白雉2年(651年)、役行者が石鎚山を臨む星ヶ森で修行中に、山頂付近に蔵王権現が現れた。 その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建て安置したのが創建といわれる。 修験道の道場の一つで、天平年間(729年-749年)には行基、大同年間(806年-810年)には弘法大師が入山している。 明治初期の廃仏毀釈により一旦廃寺となったが、明治13年(1880年)に信徒らの尽力により大峰寺の名前で復興し、 明治42年(1909年)に元の横峰寺の名に戻されている。 | ||||||
![]() |
<<横峰寺:境内>> 本尊は金剛界大日如来坐像。 | ||||||
![]() |
<<横峰寺:星供大師>> 密教では、人の営みは、生まれながらに定まる星・本命星と、毎年巡りくる星・当年星のもとにある、とされる。 星供養というのは、人の星回りの善し悪しを知り、災厄を祓い、より良い一年となるように祈願することである。 弘法大師は、星が森で星供養の修法をしたとされている。 | ||||||
![]() ![]() ![]() |
<<香園寺(こうおんじ):大聖堂>> 四国霊場第61番札所 栴檀山香園寺。 大聖堂は、昭和51年(1976年)の建立、鉄筋コンクリート二階建て、高さ16m。 一階が講堂、二階は本堂と大師堂を兼ねている。本堂には600席余りの椅子席がある。 まるで劇場みたい。 本尊は、大日如来。 用明天皇(在位585年-587年)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。 天平年間(729年-749年)には行基が訪ねている。 大同年間(806年-810年)に、弘法大師は巡錫中に当地を訪れた。すると、門前で身重の婦人が苦しんでいた。 大師が、栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると、元気な男子が無事に生まれた。 これを機に、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来を本尊の胎内に納め、再び栴檀の香を焚き護摩修法を行った。 以来、安産・子育ての信仰の寺となったという。 | ||||||
![]() ![]() ![]() |
天正年間(1573年-1592年)、兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り寛永年間(1624年-1644年)に再興されている。 <<香園寺:境内>> 境内にあった戦争慰霊観音像。 右手の上に、特攻兵に見える軍人がのっている。
| ||||||
![]() |
<<宝寿寺(ほうじゅじ):参道入口>> 四国霊場第62番札所 天養山宝寿寺。 天平年間(729年-748年)、聖武天皇は諸国に一の宮を造営した。 そのとき、この地にも大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立される。 そこに、大和の僧道慈が、勅命により法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。 大同年間(806年-810年)、弘法大師は当地に逗留し、光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とした。 | ||||||
![]() |
<<宝寿寺:本堂>> 本尊は十一面観音立像。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅したが、 寛永13年(1636年)、宥伝上人によって現在地付近に移転、再興された。 明治初期の廃仏毀釈によって一旦廃寺となったが、明治10年(1877年)、大石龍遍上人によって再興される。 | ||||||
![]() |
<<宝寿寺:大師堂>>
| ||||||
![]() |
<<宝寿寺:香炉堂の天井>> 境内はそれほど広くはないが、本堂と大師堂の前に、比較的大きな香炉堂がある。 天井には、風鈴が吊り下げられるようになっており、願い事を書いて奉納できる。 | ||||||
![]() |
<<吉祥寺(きちじょうじ):山門>> 四国霊場第63番札所 密教山吉祥寺。 四国八十八カ所の中で、毘沙門天を本尊とするのはここだけである。 弘仁年間(810年-823年)、弘法大師がこの地を訪れた際に、1本の光を放つ檜を見つけた。 大師は、一帯に霊気が満ちているのを感得し、この檜で毘沙門天を彫造し本尊とした。 さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、堂宇を建立したのが開創とされている。 | ||||||
![]() ![]() ![]() |
<<吉祥寺:本堂>> 天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国攻めの争乱により、全山焼失する。 その後、江戸時代の万治2年(1659年)、現在の地に移り再建された。 本尊は、毘沙聞天坐像。 60年に一度開帳の厳格な秘仏。 <<吉祥寺:大師堂>>
| ||||||
![]() |
<<前神寺(まえがみじ):山門>> 四国霊場第64番札所 石鉄山前神寺。 天武天皇(在位673年-686年)の時代に、役行者が石鎚山で修行した際、石鉄山大権現を感得したのが始まり。 もとは、石鎚山の七合目(1400m)付近にあり、石鎚神社の別当寺であった。 明治初期の神仏分離・廃仏毀釈で廃寺となったが、後に現在地で再興された。 | ||||||
![]() |
<<前神寺:本堂>> 本堂は、昭和47年(1972年)の再建。 本尊は、阿弥陀如来立像。阿弥陀如来は、蔵王権現の本地仏。 広大な敷地に、壮麗な本堂。 本堂前の護摩壇、左右に伸びる回廊、静謐とはこのことか。 | ||||||
![]() |
<<前神寺:大師堂>>
| ||||||
![]() |
<<前神寺:薬師堂と護摩堂>>![]() | ||||||
![]() ![]() ![]() |
<<三角寺(さんかくじ):鐘楼門>> 四国霊場第64番札所 由霊山三角寺。 ![]() ![]() 73段の石段を上った先に鐘楼門がある。 目の前に釣り鐘が下がり、左右に仁王様がいる。 愛媛県最後の札所になる。 天平年間(730年-749年)に、聖武天皇の勅願により、僧行基が弥勒浄土を具現化するために開基したとされる。 その後、弘仁6年(815年)、弘法大師が来訪、十一面観音を刻んで本尊とした。 さらに、大師は不動明王も彫られ、三角形の護摩壇を築き21日間「降伏護摩の秘法」を施したとされる。 この護摩壇の跡が、境内にある三角の池の中の島として現存し、寺院名の由来とされる。 | ||||||
![]() |
<<三角寺:本堂>> 天正9年(1581年)の長宗我部元親軍の兵火で本尊以外は焼失した。 現在の本堂は、嘉永2年(1849年)の再建。 昭和46年(1971年)には、基礎部分ををコンクリート造りに変更修理している。 本尊は、十一面観世音。 本堂前には、樹齢300年と言われる山桜が、枝を広げている。 | ||||||
![]() |
<<三角寺:大師堂>>
| ||||||
![]() |
<<三角寺:三角池>> 寺名の由来となった「三角の池(みすみのいけ)」。 石垣で囲まれ、中の祠には弁才天が祀られている。 |