2022年6月25-26日
 予てからこの地(千葉北部から茨城)に行きたかったのだが、感覚以上に遠く、日帰りの範囲を外れるため、 なかなか行けるところではなかった。
 たまたま、一泊の予定を立てることになり、落穂拾いのような感覚で、行けなかったところを廻ることにした。 まずは三大厄除け大師の観福寺、次に東国三社の息栖神社。そして、水戸近郊の偕楽園と大洗磯前神社。
 梅雨の雨を心配していたのだが、記録的に早く梅雨が明けて猛暑の中のドライブとなってしまった。

大洗磯前神社
<<大洗磯前神社:神磯の鳥居>>

観福寺
<<観福寺>>
三大厄除け大師の一つ。

三大厄除け大師とは、
 神奈川県:川崎大師平間寺
 東京都:西新井大師總持寺
 千葉県:観福寺
をいう。

春には桜や牡丹、秋には紅葉の名所であるが、今回は紫陽花がきれいに咲いていた。


観福寺

観福寺

<<観福寺:山門>>
三大厄除け大師の由来は、「観福寺厄除弘法大師縁起」に概略以下のように記されている。

弘法大師は、自らの42歳の厄年に、自身の像3体を彫刻し、後世の生きとし生けるものすべての災厄を除こうとされた。 1体は禽獣草木の厄を除くために山に置き、1体は魚などの水生生物の厄を除くために海に流し、 残りの1体は庶民の役を除くために里に置いた。

里に留めた霊像は、京都大覚寺心経殿に安置されていた。 院の阿闍梨は、当山が東国庶人結願のための新四国霊場を開創したと聞き、 33世住職鏡覚和尚が院を訪ねた折に「之を以て新四国霊場の親大師として安置し奉るべし」と、大師像を託したという。

実際にこの寺に像が安置されたのは、1800年前後らしい。


<<観福寺:本堂>>
文化8年(1811年)、鐘眞和尚再建。

当山は、寛平2年(890年)尊海僧正の開基で、本尊は平将門の守護仏とされる聖観世音菩薩である。

観福寺
<<観福寺:鐘楼と毘沙門堂、手前に石塔>>
本堂のある境内から石段を上った、一段高いところに、大師堂や観音堂などの堂宇がある。

鐘楼は、文化8年(1811年)の建立。
昭和59年(1984年)大改修。

観福寺

<<観福寺:伊能忠敬墓所>>
近世に入り、地元伊能家の菩提寺となり、熱い帰依を受けた。

敷地内に、伊能忠敬の墓がある。

伊能忠敬は、江戸時代の商人・地理学者・天文学者。 日本全国を実地測量し、正確な日本地図を作成した。

観福寺
<<観福寺:大師堂>>
文政12年(1829年)、秀珍和尚建立。

観福寺

<<観福寺:観音堂>>
元禄年間、春海和尚建立。
本尊聖観世音菩薩像が安置されている。

息栖神社
<<息栖神社:一の鳥居>>
息栖神社は東国三社の一つ。

東国三社とは、
 茨城県:鹿島神宮
 千葉県:香取神宮
 茨城県:息栖神社
をいう。

一の鳥居は、霞が関から流れ出る常陸利根川に向かって建てられている。 昔は、息栖の津という利根川を渡る渡船場があったという。

息栖神社
<<息栖神社:忍潮井>>
一の鳥居の左右に、忍潮井と呼ばれる鳥居の立った小さな井戸がある。 向かって左側を男甕、右側を女甕といい、男甕の方が少し大きい。

神功皇后3年(194年)に作られたという。 当時一帯は、香取海という内海が広がっていたが、真水淡水の水脈が発見され、海水を押しのけて噴出させたのだという。

日本三霊泉に数えられる。 後の二つは、伊勢の明星井と伏見の直井である。

息栖神社

<<息栖神社:二の鳥居>>
主祭神は、久那戸神(岐神、くなどのかみ)。
相殿神は、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)と住吉三神(すみよしさんしん)。

葦原中国平定の使いとして、古事記では、主神建御雷神、副神天鳥船神が派遣される。 日本書紀では、主神経津主神、副神武甕槌神となっている。 なお、建御雷神(武甕槌神)は鹿島神宮の祭神、経津主神は香取神宮の祭神である。

息栖神社
<<息栖神社:神門>>
社殿は昭和35年(1960年)の火災で焼失したが、神門だけは火災を免れている。

現在の神門は、弘化4年(1847年)の造営。

息栖神社

息栖神社

<<息栖神社:拝殿>>
現在の社殿は昭和38年(1963年)の再建である。

ここまでくると、とんでもない暑さになってきた。 昼を食べないと、体力が持たないと思い、ここに来る直前に熱いそばとかつ丼をいただいた。 さすがに、ちょっと量が多すぎたかな?

暑さの質が違うような気がする。 後で聞いたら、今年一番の暑さということで、40度近い気温になったようだ。 早めに、ホテルに入って涼むことにした。

茨城県立歴史館
<<茨城県立歴史館:水戸農業高校旧本館>>
偕楽園の北側に、茨城県立歴史館がある。 残念ながら、開館前の時間であったために、内部を見学するのははなから諦めていた。 それでも、庭園内には、各地から移設された建物が建っているので、充分に楽しめる。

水戸農業高校は、明治32年(1899年)から昭和45年(1970年)まで、この地にあった。 この建物は、昭和50年(1975年)に、創建時の外観を復元し、建設場所及び内部を変更して再建したものである。

茨城県立歴史館

茨城県立歴史館

<<茨城県立歴史館:旧水海道小学校本館>>
敷地内は緑が多く、整備も行き届いている。 まだ、朝の8時過ぎだが、今日も暑くなりそうな予感がひしひしとする。

ただ、今日は、燻蒸のため休館ということで、本来ならば、公園内も入ってはいけないらしい。 早々に、写真だけとって退散することに・・。






水海道小学校本館は、明治14年(1881年)に建築された、明治初期の小学校建築の形態を伝える貴重な資料である。 昭和46年(1971年)に、水海道市から歴史館に寄贈され、昭和48年(1973年)に建築当時の設計図などをもとに復元された。


こういう建物は中に入って、楽しみたいものだが、やってなければしょうがない。

偕楽園
<<偕楽園:好文亭表門>>
県立歴史館広場の南門を出て、表門から偕楽園に入る。

交通の便の関係などで、東門から入る人が多いのだが、この門が本来の偕楽園の正門にあたるのだという。

表門の脇に券売所がある。
茨城県民は無料。ただ、県外居住者でも、午前九時までは無料で入場できるそうだ。 (ただし観梅期間を除く。開園は午前六時。)

偕楽園
<<偕楽園:一の木戸>>
偕楽園は、水戸徳川家の庭園で、金沢兼六園、岡山後楽園と並んで日本三名園の一つとして知られる。 梅の名所で有名なのだが、残念ながら季節が違う。梅林はパスすることにした。

表門から中に入るとすぐ一の木戸に至る。 いよいよ、偕楽園の妙味ともいえる、好文亭に至る散策路が始まる。

偕楽園

<<偕楽園:孟宗竹林>>
道は下り坂となり、左側に孟宗竹林が、右側に大杉林が広がる。

ここからは、鬱蒼とした林が続き、陰の世界を構築している。 偕楽園全体が陰陽の世界を体現しているとされる。 すなわち、表門から好文亭までが陰の世界、その先の梅林や見晴し広場が陽の世界を表しているのだという。

偕楽園
<<偕楽園:吐玉泉>>
孟宗竹林を過ぎ、坂道を下り終えると、吐玉泉と呼ばれる湧き水があり、白色大理石の井筒が置かれている。

この付近はもともと湧き水の多い土地で、数メートル離れた場所に集水桝を置き、高低差を利用して井筒に噴出させている。

井筒に使われている白色大理石(寒水石)は茨城県常陸太田市真弓山から採掘されたもので、 現在のもので4代目になるという。

偕楽園

<<偕楽園:園内の木道>>
吐玉泉を過ぎて、木道が続き、上り坂となる。

この周囲には杉の大木が数本あり、大きい順に太郎、次郎と名付けられ、五郎杉まであったという。 現存するのは、太郎杉のみ。

偕楽園
=太郎杉=
偕楽園
=次郎杉=


太郎杉は、推定樹齢800年。

次郎杉は、昭和39年(1964年)の台風20号の際に強風で倒れてしまい、根元だけが残っている。

偕楽園
<<偕楽園:好文亭中門>>
好文亭は、水戸藩九代藩主徳川斉昭が、家中の人々とともに心身の休養を図るため、天保13年(1842年)に建てた。

好文は梅の異名で、
 学問に親しめば梅の花が咲き、
 学問を廃すれば梅の花が咲かなかった
という、中国の故事から名付けたという。

偕楽園
<<偕楽園:好文亭>>
建物は、2層3階建ての好文亭本体と、北につながる平屋建ての奥御殿からなり、総称して好文亭という。

昭和20年(1945年)8月の空襲で全焼したが、昭和33年(1958年)に復元。 昭和46年(1971年)には落雷により奥座敷と橋廊下が消失。 翌昭和47年(1972年)に復元された。

偕楽園

<<偕楽園:好文亭庭園>>
好文亭からの眺めは、いままでの陰の世界から陽の世界に移り、明るいものにかわった。

奥御殿の各座敷の襖絵は、季節の花々で、華麗に彩られている。

偕楽園
=菊の間=
偕楽園
=紅葉の間=
偕楽園
=萩の間=
偕楽園
=桜の間=

偕楽園
<<偕楽園:好文亭から千波湖>>
好文亭3階から千波湖(せんばこ)を眺める。

かつて、水戸藩が城下町を整備したころは、現在の3倍ほどの大きさがあったという。 水戸城にとって千波湖は天然の外堀でもあった。

偕楽園
<<偕楽園:仙奕台(せんえきだい)>>
好文亭そばの見晴らしのいい高台。 少し飛び出ているため、四方を俯瞰することができる。

「奕」とは、囲碁を打つこと。 千波湖を眺めながら、琴を弾き、囲碁や将棋をする人々の憩いの場として設けられた。

一方では、いざというときの台場(砲台)の役目を持っていたという。

偕楽園

<<偕楽園:東門>>
JR偕楽園駅や駐車場の関係で、多くの人がこの東門を利用する。

今日は、好文亭表門から東門に抜けることになった。

偕楽園
<<偕楽園:南崖の洞窟>>
水戸藩二代藩主徳川光圀から九代藩主徳川斉昭の時代にかけ、「神崎岩」と呼ばれる石を採掘した跡。 洞窟は全長150mに及び、笠原水道の岩桶や、吐玉泉の集水暗渠などに利用されたという。

偕楽園

<<偕楽園:大日本史完成之地の碑>>
「大日本史」は、明暦3年(1657年)、徳川光圀が着手し、歴代藩主に引き継がれ、 明治39年(1906年)この地で完成を見た。



偕楽園は、徳川斉昭が天保13年(1842年)に開園し、民と偕(とも)に楽しむの意を込めて偕楽園と名付けた。

大洗磯前神社
<<大洗磯前神社:神磯の鳥居>>
斉衡3年(856年)12月29日、突如として海が光り輝き、二つの岩が現れた。神霊が告げて曰く。

「我は大己貴命・少名彦命なり。 昔、この国を造って常世の国へ去った。 今、人々の難儀を救うために再びこの地に帰れり。」

その二柱の神が降り立ったのがこの浜とされ、鳥居のある岩は聖地となっている。

大洗磯前神社
<<大洗磯前神社:二の鳥居>>
ときは平安時代、天然痘などの疾病が流行していた時期にあたる。 二柱とも医薬の祖神であることから、薬師如来と合わせて、この地に難病を救う神仏習合の神として祀った。 更に「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜った。

なお、大己貴命は大洗磯前神社の主祭神であり、少名彦命は10kmほど離れた酒列磯前神社の祭神となっている。

大洗磯前神社

<<大洗磯前神社:石段>>
海岸は堤防を兼ねた散策路になっており、展望所も一カ所設けられている。

旅館や食堂が並んでいる間を抜けて、鳥居の前に出る。これが二の鳥居。 一の鳥居は、ここから300mほど離れた県道の入り口にある。

鳥居から境内まで約100段ほどの石段がある。

大洗磯前神社
<<大洗磯前神社:拝殿>>
創建後、戦国時代の戦乱で荒廃していた。

元禄3年(1690年)、水戸藩2代藩主徳川光圀によって造営が始められ、3代藩主綱條の代で本殿・拝殿・随神門が完成した。

拝殿は、享保15年(1730年)の竣工。

季節のせいか、神社では茅の輪くぐりのための茅の輪が設けられている。 (そういえば、息栖神社にもあった)

大洗磯前神社
<<大洗磯前神社:本殿>>
神社の本殿は、塀などにさえぎられて、なかなか撮れないのだが、ここでは比較的きれいに撮ることができた。

本殿は、享保15年(1730年)の竣工。

大洗磯前神社
<<大洗磯前神社:烏帽子岩>>
駐車場の傍ら、ひっそりと誰も振り向かないような場所に、烏帽子岩があり祀られている。

鹿島神宮の要石とつながっているという話もあるが、よくわからない。

大洗海岸は海水浴の名所。 この日も、まだ季節的には早いのだが、一足早い猛暑のため、海岸に向かう車で渋滞気味。 都会地は大変だ。

偕楽園もここも、時間をとりすぎたので、予定を早めて帰路につく。 というか、暑すぎて、ヘトヘト。